収差、収差に悪魔的魅力を感じる!

Fujinon 55mm F2.2

NikonZ50 Fujinon 55/2.2

収差とは、レンズの不完全性によって、像が滲んだりぼやけたり歪んだりすることを言います。理想的なレンズであれば、1点から出た光はレンズを透過した後も1点に集まるものですが、現実にはそのような完璧なレンズは存在せず、後に述べる様々な要因によって像が乱れます。また、像の各点の関係が被写体上の各点の関係と相似であること、すなわち物の形が歪まずに映ることも大切です。各レンズメーカーは特殊分散レンズや非球面レンズを利用したり、レンズの材質やコーティングを工夫することによって収差を抑える努力を続けていますが、それでも補正後に残る収差(残存収差)が見られます。全ての収差を同時に抑えることはできないため、どの収差をどれくらい残してどの収差をどれくらい抑えるかは各メーカーごと、そしてレンズごとにバランスの取り方が異なります。これが「レンズの画質」や「レンズの味」と呼ばれるものです。

収差を出来る限り抑えこもうとすると、特殊な材質やコーティングを利用したり、高精度のレンズを使用したり、レンズそのものの枚数を増やしたりすることになり、必然的に高価格化と高重量化は避けられません。画質の良いレンズが高くて重いのはこのためです。逆に比較的安価なレンズではある程度収差が残っていることが多く、どの収差が目立つかという「レンズの味」で購入する一本を決めなければいけないのです。

逆に言うと、収差を知れば「安くて良いレンズ」が見つけられるようになる、と言えるかもしれません。

シャープなピント部になだらかなボケ。鮮やかな発色に四隅まで高いコントラスト。
そんな理想に近いレンズが誰にでも手に入ってしまう今、なぜかそんな現代レンズに魅力を感じられない自分がいた。

理由はいくつかある。誰もが持っている物に魅力を感じないというのも理由のひとつであろう。メーカーに決められた組み合わせに従いたくないというひねくれ根性もある。でもその最大の理由は個性が感じられないからだ。
確かにプロの道具に個性は要らないという考え方もある。われわれは間違いなく必要な写真を必要な瞬間に押さえなければならない。個性は二の次。とくに報道やスポーツ写真はそういった要素が濃い。また圧倒的に高いクオリティーが必要なジャンルも存在する。天体写真やネイチャーフォトはその代表であろう。味があっても不鮮明な写りなら意味をなさない。

ではポートレートはどうだろうか? ポートレート写真は、ある意味収差とうまく付き合うことで成立していたジャンルといえる。初めてのポートレートレンズといえるペッツバール人像鏡玉や、戦前の神話をほしいままにしたニコラペルシャイトも、多大な収差を抱えたレンズだ。タンバールも同じ。収差などの欠陥を光学技術の発展によってクリアし、性能を向上させてきたのが、レンズの歴史だ。そのような現代レンズの対極にオールドレンズは存在する。

性能の良し悪しは個々撮影者の好みだが、僕は収差を残しているレンズに魅力を感じてしまう。その収差が強烈であればあるほどその魅力は強い。しかもそんな強烈な収差を持ちつつピント部分は結像する。そんな悪魔的なレンズには魅入ってしまう。
今回はそんな収差が多いレンズの中でも、比較的手に入りやすいものを集めた。ポートレート域で充分な魅力を持ちながら、使いやすいレンズたちだ。

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